ライブスペースのある居酒屋 | 音と料理の店 ら | 大阪東心斎橋

音と料理の店 ら  電話 : 090-3487-1575
〒542-0083 大阪市東心斎橋2-3-13 スターライトビル4階

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  • 2017.05.28 Sunday
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指を切る

調理をしていて指を切る事がある
急いで水で洗って綺麗に拭き取り、防水の絆創膏を貼る
衛生…特に食中毒防止のための必要な処置
そんな事を教えて貰える環境に居て、身に付いたものが
色んな処で見た事も無いものを食べ続けたとしても
どこかで衛生に問題のある料理は、手を出さない事で
他人からは『よくそんなものを食べるなあ』と言われても
食あたりや食中毒の経験が、ほとんど無い

例えばこんなこと
調理中に指を切るのには、こんな場面がある
飾り切りで手を滑らせた時や魚介類をさばく時
それにも増して多いのが、下拵えなどで
同じ材料を数多く刻み続けている時
料理を初めて数年もすると包丁の使い方にも
少しは慣れ始め手際よく材料を刻める様になる
野菜などを刻む場合には、包丁が指の
1ミリも離れていないところを動いているのだが
慣れたと思い始めたばかりの者は
ついその危険を忘れてしまい
注意力不足や立ち位置のちょっとの違いから
ざっくりと指を切ってしまう事がある

よく研がれた包丁で指を切ると
切った瞬間に「あっ」と思ってもまだ血が出る事は無く
痛みすらもあまり感じない
何かとても危険な状態になったのだと指を押さえ
まな板から離れてそおっと押さえた手を開くときに
始めてどのくらいの怪我なのかを知り
「怪我をしました、処置してきます」と言って
怪我の洗浄・消毒・血が出ていれば止血して
傷口がふさがるまでは、薄いゴム手袋をはめて仕事をする
持ち場に戻って包丁を流しに置き
怪我をした周辺の食材を捨ててまな板を交換する

ある日、海老真薯に入れる蓮根を刻んでいる時に
いつもは何でもない作業でざっくりと指を切った
傷は、そんなに深くなかったのだが
すっぱり切れた指先の傷から血が一滴二滴
まな板の上に落ちてしまった
私は、持ち場を離れ前にもしたように処置をして
持ち場に戻って血で汚れていない食材を分けようとして
後ろから声が飛んだ
「そんなもの全部捨てんかあっ」
60センチのまな板の上に2センチくらいに落ちた血で
刻んだ蓮根は、すべて塵箱行きになり
包丁とまな板を熱湯消毒して残りの仕事を終えた

いつもなら「あほうっ、気ぃつけんか」で済むはずが
「ちょっと残っとけ」の言葉に次の仕事に遅れる連絡をして
待っている私に声をかけた上の者が話し始めた
「あんな、血も魚や肉から出たドリップ(にじみ出る液体)とおんなじや」「衛生的にも絶対したらアカンし、万が一食中毒でも出した時にそれがお前由来やったら取り返しつかへんねんぞ」
言葉が続く
「それにな食材は、それがエエか悪いかは関係無しにお前でも他の誰でもが選んで買うてきた物は同じものは絶対に無いねんで」「誰かが作って誰かが運んで誰かが並べて誰かが売って買うてきたものは、それしかないから大事にしようと思うたら怪我なんか絶対にしたらアカンねん」

正直に言ってあまり好きな先輩では無かった
それが自分より料理を大事にしている事が悔しかった
頭を下げる事が嫌いな天邪鬼な私が
頭を下げなければならない事が腹立たしかった
若い二束三文のどうでも良い自尊心に
震えながら頭を下げた事で私は少しだけ世界が広がった
それ以降、その先輩の仕事を見るようになり
その先輩が出来る事は、やれるようになろうとした

次の仕事が決まって厨房を離れる時には
その先輩から習った事、盗んで覚えた事で
やはり共に過ごした時間の思い出があり
今度は、本当に頭を下げさせて貰えた


胃拡張行進曲(閲覧注意?)

若い頃には、何かしらつるんで遊ぶ連中が居るもので
そういう連中となら若さゆえの馬鹿さが加速する
そんな話

ミナミの街をよく練り歩いた三人組
こちらの方は、また別の機会に書くとして
(
恐らく書けないだろうけれど…)
あるスポーツをしていた事で集るようになった四人組
私が、練習に行っていたところでは
伝統的に『ラーメンダッシュ』と言う実に下らない
実に体育会系の効果的なシゴキがあり
私たちがシゴかれる標的になった年に

練習場所の最寄りの駅から200mほど離れたラーメン屋
ある日先輩が『ラーメン奢ってやるから来い!』と言えば
噂に聞いていたラーメンダッシュの始まり
安テーブルに座った私たちの前に並ぶのは
脂たっぷりの大盛りラーメン

5分以内に食べろ』の命令に必死で食べる

食べ終わる頃を見計らって置かれる小銭

『ダッシュで駅前の自動販売機でたばこを買ってこい』

『遅れた奴は、もう一回ラーメンから』これは効く

練習で力の抜けていない腹筋と縮みきった胃に

流し込んだ大盛りラーメンでのダッシュに胃が悲鳴を上げる

毎年半分くらいの者は、走る途中に嘔吐して脱落

まあ無事帰りついても『よくやった』と

背中を二回ドンドンと叩かれて伸びた体のお腹に

一発拳が入って万事休すなのだけど

 

その年に耐えきった奴と私

後で話した時に「食べたラーメンがもったいないから」

と実に下らない理由で意気投合

なにか大食いしたい時は、よく連れ立った

何人前の大盛でも一人で食べれば同じ料金の中華料理屋

三倍焼き飯と二倍もやし炒めとか…確かそれで¥650

食べ放題焼き肉なども、よく行った

 

そんな食事会に時々来ていた奴の友人と私の友人

一度四人が揃った時に目指したのは

当時2時間¥3000で飲み放題、食べ放題のバイキング

難波の総合レジャービルのワンフロアーを占める巨大なエリアに

常時150種類と謳っていた宣伝にたがわず並ぶ料理の数々

四人の中で最も小柄だった私は、見たかったのだ

こいつらが暴れ狂って食べる姿を

 

テーブルに着いた四人は、持ってくる料理と分担を作戦会議

「飲み物は、ビールで統一な」「とりあえずワンケースやな」

「あんかけ系は、ペースが落ちるから後回し」

一回目は、ローストビーフ・エビのカクテルソース・焼き飯&唐揚げ・ビール

それぞれトレーごと持ってくる

止められたら「10分で食べ切る」と言って振り切る

1〜2分後に集合、三つのトレーとビールワンケース

15分もしない間に完食、ビール残り14

10人前くらい料理の乗っていたトレーを三つ重ねてゲラゲラ笑う

大笑いの後で四人に火がついた

一回目のパターンでやれば時間内に4セット同じ事が出来る

 

四人の気持ちが一つになって、さっきよりもスムーズに事が進む

もう店のスタッフも何も言わない

チンジャオロースー・子牛のポトフ・お造り・ハンバーグ

心なしか最初よりも食べるペースが上がっているような気がする

そして三度目に持ってきたトレーで私のペースが少し落ちた

それでも1時間ちょっとしか時間はたっておらず

私は、4セット目をゆっくりと食べて終わるつもりでいたのだが

その時に一人が言った「このペースなら5回イケるな」

顔を見合す私ともう一人の向こうで、その言葉に頷くもう一人

 

私たちは、自分の食べる限界を知っていた

全員が、自分の胃にもう何もはいらないところまで詰め込んだ経験を

何度となくしてきている

4セット目で私ともう一人は、ビールをウィスキーに変え

チーズやらスモークサーモンをつまみ

あとの二人のそれでも「仕上げだぁ!」と

パスタやピザを食べている姿を眺めていた

 

喫煙者である三人は、時間の間に煙草も吸わず

甘いもの好きだった奴がケーキも食べずに10分前に饗宴は、終わる

私たちのテーブルの横には、食器回収用のワゴンがおかれたままになっていたし

「取った料理を残された場合、云々」の注意書きをあざ笑うかのように

パセリ一つ残さないた皿やトレーが積み上げられていた

10分を残し店を後にした私に同じ練習に通う連れが聞いた

「お前、いま駅に煙草買いに行けと言われたらどうする?」

続けて奴は「今なら俺は、先輩を殴る」と

私は、吹き出し後の話の分からない二人も笑い出した

可笑しい、笑ったくらいでもどしそうになるほど一杯の

お腹に詰め込んだものがまた可笑しい

お互いの顔を見ないようにしばらく離れて笑いが収まってから

 

行きつけのバーのカウンタに収まった私たちは

それぞれの注文したお酒に口をつけてから

全員で同じようにグラスを置いて笑いをこらえた

こらえた笑いがおかしさを呼んで笑いが止まらない

四人は、グラスに口をつけた時に同時に分かったのだ

グラス一杯の水分も入らない自分たちの胃に


玉子丼・阪神淡路大震災と呼ばれた頃

来週の火曜日は、17日
17年前の未明にに起きた大きな地震の日
大阪にあった私の家は、棚の物が落ちたくらいで
被害は無く、一日を情報の収集に努めたが
当時していた仕事の神戸方面からの連絡が
当日も翌日も皆無でそれが、とてつもなく
大変なことである事に気付き始めていた

それから色んな事があった
被災地に向かおうと乗った車が
20時間運転しても兵庫県にさえたどり着けなかった事
ようやく連絡の取れた友人が「骨折くらいなら」と
治療を後回しにされるほどの惨状であった事
バスに折りたたみ自転車を担ぎこんで回った
メーカーと連携して自動販売機の飲料を出して配った
大阪から運べない水を中国道経由で三田の方から
運んだり、大阪港や岸和田からも個人の船で
色んなものを運んでくれる人たちの荷物も受け取った
みんなが、出来る限りの事をしていた
被害のほとんど無かった大阪と言う都市が
近くにあった事も大きかっただろう

復興と言うには、まだ目の前の片付けや
救出に追われていた頃に
兵庫南部地震は、阪神淡路大震災と呼ばれるようになり
私は、とある店でよく酒盛りをしていた
被災地の真ん中にある店のオーナーは
電話で自宅から店に行けない事を告げ
店にあるお茶やジュースをスタッフに配るように
後の物も店に住んでいる主任に任せるから
自由に使うようにと伝えてくれと伝言をもらった

店の主任と集まれるスタッフで手分けして
水やお茶を分配して缶詰やお菓子も近隣に配って
店には、かなりの量と間きりの必要な缶詰が残り
そして酒宴が始まった
復興の手伝いや片付けが終わると私は
よくその店に泊りに行かせてもらい
夜な夜な店の片付けをする主任と
行くところのない若いスタッフで酒を飲む
誰が誰でもない不思議な日々

そんなある日、灘の川沿いに数件立ち始めたバラックに
『ご飯あります・飲み物は、自分で用意して下さい』と書いた紙の葉ってある一軒が目に付いた
近づいてみると張り紙の横にもう一枚
同じ様な紙で『・・食堂』と書いてある
入口から覗きこむと、私より10歳くらい上のお母さんが
こちらを向いて声をかけてきた
「玉子丼と鮭の焼いたのどっちにする?」
怪訝な顔の私に重ねて
「今日は、あと五つしかないから早よしいや」
「いや僕は、復興の手伝いにきただけやから…」
「アカン、ここに来たら食べていかなアカンねんで。玉子丼作るから座っといて」と
バラックの奥のカセットコンロで手際良く
玉子丼を作って私の前に置いた
コカコーラのベンチとばらばらの椅子に
会議用の長机が置いてあるバラックの中で
お母さんは、私の前に座り話し出した

「アンタ大阪から来てくれたんかありがとうなあ、仕事もあるやろに」「このベンチと机、拾ってきたんよ」
二つ三つ返事をしながら食べ終わり
お金を払おうとしてお母さんが断る
「まだお金は、ええわ。この神戸でみんながお金を稼げる様になったら、その時もらうから」
「アンタらがな大阪で普通に暮らしていてくれたら、おばちゃんらもなんか大丈夫な気がするから頑張ってや」
「今はな、何でもええから作って人に食べて貰ってんと自分が無くなりそうやからやってるだけやねん」
「こんどもこっち来たら絶対においでよ、なんか絶対に食べて行きよ」
色んな事があった
それからもいろんな事に出会い、巻き込まれた
二度ほど同じバラックも訪ね、葱や干物と水も持って行った

本格的に復興が始まり、日差しも少し暖かくなった頃に
バラックを訪ねた私に、お母さんが言った
「ここにな電車がちゃんと走るようになったら私、いっぺん田舎に引っ越すわ」
「また、出てきて店できるかどうかわからへんけどな」
ちょうど今日の様な、空気の冷たい日差しの柔らかな日


命懸けのポテチ電撃大作戦

若い時と言うのは、得てしてそう言うものだ

何者かになりたい自分の経験の無さに気付かないあまり

自分自身に「ねばならない」を山盛りくっつけて

ガチガチの石頭になってしまった自分の視野の狭さから

とんでもない方向に走り出し、或いは自分の中に潜り込んでしまう

 

初めてのビバーク()の寝袋から上半身だけを出して

携帯鍋のネチャついた美味くもないものを胃袋に押し込みながら

寒さと恐怖を独り言の愚痴に転嫁して私は、そこに居た

「好きで始めた山登りでもないのに」

「こんな寒さ、二度とごめんやからね」

単独登山である、この吹雪では近くに人の居るはずもない

自分で自分の首を絞めてしまった事に気づかない私は

命の危険までには、まだ距離があるにしても

普通に暮らしていれば絶対に陥らない状況に自分を連れていったのだ

()ビバーク:登山で天候の変化などで危険が生じた時にする最小限のキャンプ

 

私もその一人だった

父に連れられ5歳から山登りをさせられていた私は

自分のアイデンティティを無理矢理にそこにこじつけ

今井通子や上村直己の本を読み

「山に登るからには、より難易度の高い事に挑戦すべきだ」

「自分ひとりの力を自然に対して試して証明するべきなのだ」と

頼まれもしない、ありもしない崇高さに決意を固め

厳寒期の大雪渓に一人挑み、後悔と恐怖をそれでも

信じたくないために繰り返し不満のやりどころを探していたのだ

 

緊急用の食料は、二つ用意していて

一つは、歩きながらでも片手でも食べられるチーズとチョコレート

もう一つは、お湯が沸かせる状況での小さな包み

固形のコンソメとバターと砂糖とスキムミルク

それに小分けしたマッシュポテトの粉末

鍋一つでできて消化がよくて満腹感と熱量の確保できる温かいもの

換気に低く張ったテントの風下をちょっと開け

小さなコンロ、スベア123に火をつけて鍋に雪を入れ溶けるのを待って

用意したものを入れて沸騰したところでマッシュポテトを入れ混ぜる

火をかけて混ぜ過ぎたのも良くなかったのだろう

粘り気のある薄黄色のどろどろとした半液体は

目的には叶っていただろうが不味かった

 

夜半に聞いた短波ラジオで天気図を書き

翌日の登頂を諦めて下山した私は、しばらくその事も忘れ

アルバイトと学校、新しくできた彼女に時間を費やしていた

秋を前にした頃、彼女と行ったレストランで出てきたスープ

煮込んだ野菜のコンソメにクルトンの代わりにポテトチップが浮いて

私の心は、再びざわつきだす

「緊急用の食料を思いついてしまったからには、試すべきなのだ」

もしかすればそんな事の発端で人は、何かを達成するのかもしれない

若いゆえに固くなった頭は、若さゆえの馬鹿を繰り返す

 

翌年の同じ時期に同じルートをたどった私は

今度は、悪天候に見舞われる事なく順調に登山を終え

下山の途中に用意してきた新しい緊急用の食料の包みを開いた

湯を沸かしコンソメと砂糖と乾燥玉葱に人参

そして小さく砕いたビニールに入れたポテトチップを入れて混ぜる

さらに不味かった

 

若いが故にできる無茶が財産になる事を知るのは、ずっと後年の事

若いが故にしなくて良い無駄な事を知るのも同じ

ただ私は、それ以来高い山には登らず野を歩くようになった

父が、食べもしないインスタントラーメン一つをいつも

リュックの底に入れていた意味を理解するまでにしばらくかかった

 


喰うのが早い

とは、思っていなかった

従兄や伯父さんたちの中で少し早いめくらい

ただ、中学生になって外食するようになると気付きだす

女性よりも男性の方が、食べるのが早いとしか思っていなかったのが

女性と同じくらいの速さで食事をする男性の居る事に

みんなでご飯を食べていて身内がいなければ

いつも私が一番早く食べ終わる事に

そう父方の男性のすべてが、職場や学校で一番の早食い

その中で私は、結構(いちばんくらいに)食べるのが早かったのだ

 

こんな事を覚えている

夕食時に鰻と煮物のおかずで父が食べ始めてから

「汁は、無いの?」と母に聞く

「ちょっと待ってね」と母が答え

すぐにお澄ましの椀を持ってきた時に父は、食べ終わり

「鰻の汁…タレが無かったなあ」と

普通の食事であれば5分は、かかることはない

母が一緒に食卓に着くのは、お鍋の時くらい

父と一緒に食卓についていた私も父が家を出てからは

母と一緒に食べるようになったが

食事の後も漬物やなにかをつまみながら母と

話などをしていたので違和感はなかった

 

ある時、母に聞いた

「どうしてお父さんと一緒に食べなかったの?」

「結婚してすぐに一緒に食べてもあっという間にいなくなってしまっていたもの」

山に行く・日曜の夕方のお笑いを見る・ニュースを見る以外

書きものか調べものか図面を引いている姿しかなかった

父を思い出してそれもそうだと納得

 

以来私は、食事の仕方を二つに分けるようになった

自分のペースで食べる時と誰かと一緒に食べる時

誰かと一緒のときは、倍くらいの時間をかける

それでも大抵は一番早いが、自分のペースで食べている限り

食事の時間が取れない事は、まず無かった

熱くさえなければカレーや丼物なら一分は、かからない

TVで、視聴者から選ばれたかぐや姫を巡って

早食いをして告白の権利をとるというコーナーがあったが

それに出ていた人たちならば、特に食べるのが早いとは思わなかった

後になってフードファイターなる者が、世に出た時に

始めて小林と白田と言う二人だけは、違ったが

 

時間制限のバイキングとか皆で囲む鍋や焼き肉で

食べ足りなかった事は、もちろん無い

私は、食べるのが早かっただけで大食いではなかったが

運動をしていた関係で若い時は、それなりに量も食べていて

若いイコールお金が無いの図式は、当時よくあった

制限時間内で食べ切れば無料の店を良く探すようになる

 

大盛ラーメン2杯10分以内

カレー1キロ10分以内

人の食べられる量でさえあれば、10分という時間は充分だった

ただあのチェーン店の餃子10人前以外は

専門学校の帰りに電車から見えるチェーン店に赴いた私は

店の人に餃子10人前の趣旨を伝え

そして予想に反する状況を見る

一気に焼きあげられて並べられた10人前の餃子

最初に熱くて5分過ぎる頃には冷えて飲み込みにくくなる

11分40秒

30分以内には充分だったが、自分に納得がいかない

二回目は、前日の夜から食事を抜いて夕方にチャレンジ

7分台、そしてコツをつかんで三回目に支店記録の4分台

顔馴染みになった店長さんに

「もうチャレンジしなくても来たら好きなだけ餃子食べさせてあげるからやらなくて良いよ」

と言われたが、三枚並んだ記録の紙を増やしたくて

最高記録のペースで食べて5分台に最後の一個を食べる

次は、6分台・8分台…

4から11までの記録の紙をカウンター上に貼ってもらって

しばらくは、餃子には近づかなかった

 

あれは、イケナイ

翌日の夜まで自分が匂う


餅は、金持ちに焼かせる(元旦風景)

元旦の朝は、母の淹れるお煎茶と
それに添えた小梅の茶福で始まる
この日は、湯ざましで良いお煎茶
子供の口にも熱くなく甘いお茶を
二服三服と楽しむ

良い蜜柑のような形の深い青緑の釉薬の火鉢
南部鉄瓶を下ろして私の右手に新聞紙
左手に切餅の入った笊を置くと母は、台所に立つ
祖母と対坐して餅を焼いてゆくのだが
焦がさぬよう薄っすらと焼き目が付いて
均等に膨らますのが流儀

冬になるとこの火鉢で色んなものを焼く
焦がさぬように煎餅を焼く
蜜柑を黒くなるまで焼き
芭蕉煎餅は大きくするのが難しい
小さく切った魚肉ソーセージを串に刺して
じっくりと焼くのは、私のおやつ
紙に蜜柑の果汁で描いた絵を炙っての
炙り出しもこの火鉢

二つ三つ焼けた頃に砂糖を入れた醤油と
焼き海苔を母が持ってきて磯辺焼き
お膳に三段重と惣菜の鉢や小皿
三宝に朱塗りの瓢が置かれるのを見計らって
家族分の餅を焼く

煎餅は、早くひっくり返し続けないと
焦げて食べられなくなる
お餅は、じっくり焼かないと膨らまないから
ゆっくりと焼く
だから煎餅は、貧乏人に
お餅は、金持ちに焼かせろと言うんだと
毎年決まって祖母は、私に言いながら餅を焼く

新聞紙に乗せた焼けた餅を持って
母が、澄ましのお雑煮に餅を入れたら
祝い膳の始まり
丸餅は、祖母の作る小正月の白味噌仕立ての雑煮
学校帰りの楽しみのこの雑煮で松の内を過ぎ
正月は、日常へと戻ってゆく


幼き恋は、鶏の頭と共に

祭りは、その華やかさではなく裏に潜む魑魅魍魎の闇が好きだ
日常にはない屋台や境内の賑やかさの対比の向こうの裏の世界
友達の目を盗んで屋台の間から暗い虚空に進み出る
アベックやヒソヒソ話している人達には目もくれない
闇夜の夜に目を光らせている猫にも注意する
生垣を抜けた向こうに裸電球と投光器の光、闇の光

「おっちゃん、はじまった?」
「いっこ終わったとこや、ここで見とき」
角切り頭の男は、小指と薬指のかけた手で小学生の私を横に立たせた
両手を広げたより大きい藁で作った柵の円の周りを
小柄な男が、メモを持って周りを取り囲む男たちと話して回り
お金がやり取りされると左右から竹で編んだ籠がやってくる
籠から出された軍鶏は、金属製の蹴爪がつけられ合図と共に柵に放り込まれる

闘鶏は、大抵すぐに決着がつく
何度か飛びあがりぶつかり合って片方の蹴爪が相手をとらえると終わる
同じことが繰り返され、王将戦が終わり男たちの輪が崩れた時に
「・・ちゃん」角切りの声が私を呼ぶ
「手伝ってくれるか」
火にかけられたドラム缶に湯が張られ、細引きの紐と鉈が用意される
負けた軍鶏と別に用意された鶏を締めて客に振る舞うのだ

祭りも終わりに近づき明るいところに居た人達も三々五々集まってくる
こちらの世界と一線を画すように遠巻きに集まる人の中に
同級生たちの姿も数名見つけたが気付かぬふりで作業にかかる
“あの子も居た“
鶏の羽元をつかんで鉈で首を落とし細引きで足を縛って逆さに吊るす
“あの子も居た“
五羽を締めて最初に締めた奴からドラム缶の湯に放り込んで任務完了
別のひとが締めた鶏も放り込まれ、熱湯と力の要る羽根むしりは大人の仕事

闇の『ケ』の仕事を表の人に見せる『ハレ』の舞台
無事帰還した英雄の心持で悲鳴と私の名を呼ぶのが聞こえた方を見る
そこには、いつも遊ぶ同級生が一人立っていて
逃げ帰った友達と共に”あの子”の姿も無くて
ヒーローになるはずだった私は、立ちすくみ祭りの終わった
まばらな人の中に“あの子”の姿を探していた

焼いた軍鶏の匂いと鶏の水炊きの用意が出来、裏と表の人が入り混じる
その夜は、好物の水炊きを口にする事もなく
ただやたらに固い焼いた軍鶏の肉をいつまでも噛み続けていた


冷麺オヤジども

「おう、よっちゃん来てたか」
身内しか呼ばない子供の時の私の呼び名で
突然に個室の襖が開いて顔が、にゅっと出る
「うん、さっき」「そうか」
わずか2〜3秒ほどのやり取りで顔が、引っ込む
この老舗の焼肉店では、こう言う事が度々あった
何かと言うと集まりたがる母方の一族のお決まりの店

末っ子の子供として生まれた私は、私の生まれる前に
亡くなった母方の祖父母を知らないが、さきの戦争で
大陸に役人として赴任していた祖父の一家は
やたらと面倒見の良かったと言う祖母のお陰で
当時その家に出入りしていた学生が、それぞれ
母方の姉二人と結婚し、私の父もその一人の部下であった
一族と日本で知り合った私の父以外の叔母たちの配偶者は
母の6人兄弟と一緒に学生時代を過ごしているために
とても仲が良く子供の私には母の兄弟が、6人ではなく
8人居るようにも思っていた

何を長々と書いているかと言えば、冷麺である
食べ盛りの学生であった叔父たちは、家族でなくても
下宿に帰らずに母の兄弟と同じように家に来て
夕食までの間に家の手伝いをしてくれていた
オモニの作る冷麺を満足するまで2杯も3杯も
食べていたのだと言う
そしてその味に一番近いのが、この店の冷麺らしい

後になって分かったのだが、何かと理由を付けて
この店に三々五々と集まってくる叔父たちは
てんで好き勝手に冷麺を注文する
一杯飲んでから注文する者、焼肉の間に注文する者
やって来ていきなり注文する叔父もいた
そして冷麺を食べた叔父たちは、活性化する

冷麺を食べたきっかけに若い頃の話に花が咲き
いつもそうであるように叔母たちは
「外で食べると面倒見なくて良いから楽ねえ」と
20数年前の大陸にあった家に今もいるかのように
悪ガキと化した叔父たちの冷麺を食べる姿を見て
これもまた話に花が咲くのである

大きな老舗であるにも関わらず
叔父たちの悪ガキに戻るアジトのような場所は
大人になった私にとってもやはり行きやすい場所となり
ちょいとご婦人とゆっくりと食事をする時には
ここの個室を使わせてもらう事も多かったが
伴う女性は、限られていて
親族に紹介しても良い女性と言うことになる

なにせ個室を借りていようとも突然に、にゅっと顔が出る
そして数日後には、叔母たちから
「どんな娘?」「どちらのお嬢さん?」と質問が来る
私にとっては、私の預かり知らない大陸の家に
冷麺をむさぼり喰う叔父たちの中に
彼女を連れてきたようなものである

その叔父たちも他界し叔母たちも出歩く事は無くなったが
店の目を通る時、店の前を通れば必ず叔父たちが言った
「よッちゃん、冷麺食べてゆくか?」が聞こえる気がする
個室の襖が、突然に開くような気が今もしている
叔父たちのSOUL FOODレンミョン(冷麺)を久し振りに
食べに行こうか


飯と丼についての寝床考察

寒い朝に蒲団から頭だけを出して独り、ご飯の事を考える
温かい布団から出る顔だけが外気に冷たいと
イメージするのは、コートのポケットに両の手を突っ込んで
背中を丸めて入る食堂や飯屋のカウンターでの注文
寒い体を早く温めるべく時間がかからず冷えた体に
余分な動きをさせない最小限の所作でありつけるもの
そうなれば注文は、おのずと麺類か丼物に限られてくる

定番のキツネうどんに肉蕎麦、親子丼にシンプルな木の葉丼
目先を変えてラーメンやマーボー丼にパイコー飯…
ん、『飯』ってなんだ?
例えば蕎麦なら汁蕎麦でもザル蕎麦でもどんなに形が変わっても
『何々蕎麦』と最後に蕎麦の名が付く
それは、うどんでもラーメンでも然りであるのに米粒の一鉢物に関しては
『何々丼』『何々飯』『何々ご飯』と呼び名が変わる
何をして『丼』と『飯』と『ご飯』を使い分けているのか
市井の呼称なので定義したところで別称や使用語句の混雑は多いだろうが
物の本には「丼とは、ご飯の上に具材をのせて一つの器で供するもの」とあるが
やはり『丼』と『飯』に何かしら使い分けに暗黙のルールがあるように思える
丼に入れたら『丼』、皿に入れたら『飯』と言うのもあるだろう
しかし『中華丼』などは、皿に盛られてくる事も多いので器の違いは、今回は除外

まずは、一般的な『カツ丼』『天丼』『中華丼』
そして先ほどの『パイコー飯』や『天津飯』
中国には、丼と言う呼称は無いから当たり前なのだが
それでさえ日本で『丼』と『飯』に分けている感覚的なもの
そうそう『カレーライス(飯)』と『カレー丼』も含めよう

決定的な違いは、汁ではないのか
具材の汁やつゆがご飯にしみて渾然と一体になっているもの
これについては『丼』で異論は無いように思う
ご飯に具材は乗っているが、ご飯と具材が独立しているものは『飯』
ふむふむなるほど、『ソースカツ丼』は『ソースカツめし』とも言うしなあ
『カレーライス』は、混ぜるまで独立しているのに対し
『カレー丼』は、葛で溶いたカレースープがご飯と一体化して…
ふむふむなるほど

ならば『何々ご飯』は、もう少しご飯が主役と言うか
ご飯の上に横の小皿にあるものをちょいと乗せた感じ
『しらすご飯』や『いくらご飯』
これに醤油ダレをかければ、『しらす丼』『いくら丼』
『明太ご飯』や『高菜ご飯』は、たれをかける事が無いからこのまま

あとご飯に乗せるために特別に作ったものをのせた場合は『丼』
既にあるものをのせた場合は『飯』と言う使い方もできるなあ

ふむ、布団から出る前に定義づけておこう
『丼』:丼のために作った具材をご飯に乗せて、たれ・ご飯・具材が一体になったもの
『飯』:すでにあるものをご飯に乗せてひとつの器で供するもの
『ご飯』:添えるべき一品を別にせずにご飯に乗せただけのもの

ああ、深川丼が食べたくなった
深川飯と言う店もあるが、あれは深川丼だよなあ


降誕祭の夜の前に

1981年か2年恐らくは、その頃だったと思います
年の瀬も押し迫ったその日は、夜半からの雨が
不思議と温かく、壁に出来た結露が朝方になって
ゆっくり下へと伝うのを見ながら目覚めました

目覚めたと言うと少し語弊があるかもしれません
目は既に覚めておったのですが、昼の仕事と
夜の店を切り盛りしていた当時、二つの仕事の
頭の切り替えを朝に目覚めて横になったまま
整理して起き上がる、そんな時間帯のこと

「もうそろそろ準備をしないと」と聞こえたような
そんな気がしたのは、独り言であったのか
夢と現の狭間に聞いた夢の言葉だったのか
「ああ、そうか」と独り答えた自分に違和感を
感じる事も無く起き上がり、日常に戻りつつある頭で
今日が、その年の最後の休みなのを思い出し
起き上がって煙草に火をつけたのです

その場所に何故立っていたのかは知りませんが
大阪の外れにある幹線道路の交差点で
傘をさして強くなく、ただ振り続ける雨を見ながら
私は、誰かを待っていたのでしょうか
信号が、変わる何度目かに歩き出しました
「じゃ、行こうか」確かにそう言った記憶があります

学生時代にパプテスト派の教会に通っていた私の
共に過ごす者のない年の降誕祭は、特に何もせず
にぎやかな場所へ行く事も無く静かに過ごす
その年もそうで、ビルの地下のボイラー室あとの
だだっ広い空間に厨房機器や家財道具を入れて
暮していた私は、数日後に迫ったその日の
料理などを考えるつもりでいたのです

私の料理は依頼がある時以外メニューを決める事は無く
市場にあるものを買い足しながら組み立ててゆく
そんな風でしたので、その日も同じように
手に持つ袋が二つ三つとなってきて市場をあとにし
ただその日は、何を作ろうと思ったのかを
覚えては、おりませんでした

確かにその日は独り言が多かったのです
あれは、独り言だったのでしょうか
独り言のように言葉が虚空に消えてゆく感じではなく
自然に誰かに話しかけている
そんな風だったと記憶しているのです

何故だか解りませんが、自分一人の料理を作る時は
揚げ物をあまりしない私が、その日は天麩羅を
作っておりました、ただ天麩羅を作っておりました
おひたしを作る事も無く、天つゆさえ作らず
蓮根・かぼちゃ・玉葱・椎茸・鶏肉・鰯そんなものでしょう
お皿を二つずつ向かい合わせに置いて
家呑みをしない私が、買ってきた純米酒とグラスを二つ

小皿にウスターソースを注いで揚げたての天麩羅を
ご飯も漬物さえなく食べておりました
純米酒の四合瓶の底が見えてきた頃には
昼夜の仕事に疲れていたのでしょう
少し眠ったのかもしれません
ふと肌寒くなってうなだれていた頭を持ち上げて
声を聞きました、同じ声でした
「もう、お出かけして下さい。ありがとう」

だだっ広い地下室に私は、一人で座っておりました
空いた皿とグラス、むこう側に手を付けていない
天麩羅の皿と酒の入ったグラス
ゆっくりと立ち上がり片付けようとした天麩羅は
食べられないほどに水に濡れておりました
雨漏りかと天井を見た記憶があります
手を付けていないグラスの縁が、口を付けたように
少し汚れていたのは、気のせいだったのかもしれません

今日はじめて目覚めたのかと思うくらいすっきりとした頭で
片付けを終えた私は、お気に入りのGI−A1ジャケットを羽織り
もうそろそろ酒飲みが徘徊する時間を確かめて
地下室の鉄のドアを開けて持って出た傘を置きました

昨夜からの温かい雨は、細かく冷たい雪に変わり
遠くに降誕祭の音楽を流す商店街の音
ポケットに手を突っ込んで繁華街へ向かう私の
頭の中で特に好きでも無い山下達郎の
クリスマスイヴが流れていたのに
今度は、一人で独り言
「それは、出来過ぎだろう」

いつものバーでバーボンのロックを二杯注文
小さく乾杯して一杯目そして二杯目
「何やってんだ、お前」とバーのマスター
『いや今日は、二人前飲もうかと思ってね』
「相変わらずの馬鹿だな、お前は」

その夜は、一晩中あの歌がリフレインしておりました